Agriculture

畑の長い話

花、樹、芽吹き腐る気配のありか

 

花と暮らす、という字面の雰囲気が、わたしにはどうもお洒落すぎるような気がする。「花と暮らす」と書くだけでは、花と暮らすことで受ける感情を漂白してしまうような気がするのだ。

 

植物を育てること、その命を保つこと。

それは生き物をひとつ自分の生活領域に受け入れるということだ。

ちなみに言っておくけれど、私の感受性(ことに、植物に対する)は特段人と比較して優れていないと思う。
私の言う、花から受ける感情ーーいわば花の気配が、いかに濃厚であるかは、きっと誰にも、すぐわかる。ただ「花を置く」のでなく、あなたが水や土や風の面倒を見なければ、たちまち、あるいは徐々に、その命が失われるという環境において、ある程度まで自分が責任持って面倒見ようじゃない、と決めてひとつその緑色の生き物に向き合ったなら。

 

水をやった翌日の、葉の縁がきりり張った触り心地。

太陽と水から生まれた新芽が驚くしかない速さで色を濃くして広がっていく様子。

蕾が膨らみ、解けるみたいに花が咲いて零れて、鮮烈な薫りを撒いて、その匂いの奥に熟しすぎて腐るひとつまえのえぐみが混ざったなと思うよりも先に、茶色く花びらが萎んでいくこと。

根が土をかき抱き、ときに鉢を越えてあたらしい養分を、水を求めて動くこと。

 

今、うちのヒヤシンスは盛りを少し過ぎ、私が小学生のときにつくった水仙の切り花と並んでいる。彼女も、花が枯れた後は球根を庭に植えてやるつもりでいる。来年の春、花の姿でもどってくるだろう。

 

窓際のガジュマルは、夏の日差しを、雨を含んだ大気を我慢強く待っている。ずぼらな人間のせいで乾きすぎたこともあったが、太陽の力で少しずつ元気を取り戻してきた。春になれば、もっと広い鉢に引っ越して、根と枝葉を去年以上に広げてくれるだろうか。

 

答えない同居の生き物たちは、無言の気配だけを濃く部屋に返す。

ただある緑色のものでは決してありえない。

生き物の気配だ。