親愛なる「ご不快論法」様へ
親愛なる「ご不快論法」様へ
いつもお世話になっております。
畑と申します。
「ご不快な思いをさせてしまい、
大変申し訳ございません」
一体、ただ私がこの社会で黙らないということを選んだというだけで、何度あなたとお会いするはめになったのでしょう。洒落じゃなく、一度しっかり数えてみなければと思っております。
あなたに敬意を払うなら、
「ご不快論法」でなく「ご不快謝罪」とお呼びするべきかもしれません。
しかし私はあなたをそう呼びません。
理由はいたってシンプルで、あなたは全く謝っていないからです。
あなたが謝っていない理由を2つお伝えしましょう。
まず、あなたは謝罪を表明しなければいけないほどの批判が寄せられた理由を、「不快」にまとめています。
きっと、本当にそれだけだと思っているのですね。
そんな認識の甘さだから、謝罪表明しなくてはいけなくなるような発信をしてしまったんじゃないですか。
あなたに寄せられた多くの意見には、なぜあなたの発信を批判するのか、多くの人の言葉、多くの人の受けた傷で示されていたはずです。
それをたったひとこと「不快」でひとまとめにして、謝ることなどできないのではないですか。あなたは一体、誰に謝っているのでしょうか。
2つめは、あなたが「受け取り手の」不快、に謝罪の理由をなすりつけているからです。
謝罪とは、自分の行いについてするものです。自分の行いが誰かを傷つけ、踏みにじったときにするものです。
あなたは誰かの足を思い切り血が出るまで踏んでおいて、「痛く感じたならすみません」と謝るのでしょうか。
なぜ、謝罪の原因を傷つけた側に求めるのですか。
誰もが過ち、誰もが誰かの足を踏みます。
それを認めた上で、そんな時何よりもまず足をどけられる人でありたいと思いませんか。
誰かの足の上で胸を張って「痛く感じますか?痛く感じるなら降りますけど」なんて、やっている場合じゃないのですから。正確には、もう何千年もやってきたのですから。
そろそろ私たち、足をどけましょう。
そのために、傷ついた人たちの言葉に耳を傾け、真摯に考え、一体誰の足をどのように踏んだのか、私たちの足を見据えることから始めませんか。
私たちの選ぶその道の先で、
二度とあなたにお会いしないことを強く願い、私は私の足から実現しようと思います。
離別をこめて。
2019年 畑