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畑の長い話

自戒の春


殴るという言葉を以下使いますが、実感に基づいた比喩です。

素手で人を殴るみたいな仕事だ、というのが今の正直な感想で、それに慣れたくないというのが今の一番強い気持ちだ。
なぜかというと私は慣れることができる人間だから。簡単に人を殴れる人間だから。

全くの善がないように、全くの悪もない。
この仕事は、ある角度からは、必要な仕事なんだと思う。
仕事の現場で殴られて、再起不能になってしまう前に、「こういうことも起き得る」と体験してもらう。
そのときにどう対処するかも教える。この場でそれを学んだあなたならできる、と最後には背中を押しもする。

でも、人を殴っている。

目的があり、目的のための正当性があったとして、だったら人を殴っていいのか?

どうも、人によって答えが違うらしい。
そして、恐らく会社の方針(トップの考え)は、「いい」なのだ。
現場で殴られてきた人だから、現場に出す前に教えてもらえるだけ、いい、という考えだ。

私はいいとは思わない。
だって、人に何かを教えるために、その人を苦しませなければいけないなんてことを私は信じないからだ。
「だって実社会がそうだから」なんて、教育する側の敗北だと思うからだ。

詳しくは書かないけど、私は「目的のために良いことだと信じて誰かを苦しませる」というのを、もう取返しがつかないレベルでやってしまっている。
謝っても、みんな私を許さないだろう。というか許されるために謝れない。私は楽になりたくないし、なれない。
「これからはもうしない」と言うことしかできない。

でも私は楽なほうに流れる人間だから、「仕事だから」という新しい言い訳をつけて、
人を殴る側にいつだって回れてしまう気がする。


会社の制度とか、環境とか、いろいろな角度で懸念があるんだけども、
もう理由をつけて人を殴る側に回ることはできないので、
次に進むためのお金を貯め次第、次に進みます。
という決意表明。