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畑の長い話

地獄は私の好きを奪えない

 ついったーが、 #名刺代わりの映画10選 というすてきなタグでにぎやかだ。
 わたしは主に洋画が好きな方々で構成されたタイムラインで生活している。生活のリズムまでなんとなく共有されているような方々があげられる、「名刺代わりの10選」が実にさまざまで、個性に富んでいて、みているだけで心が温かくなって、ついでに涙もろくなったので、こうやって卒論をぶん投げてブログを書いている。多分情緒がやばい。情緒がやばいやつの書いている文章だということを頭にいれた上でこの先を読んでいただけたらとてもありがたい。

 なにせ毎日辛すぎるのだ。

「いちいち考えすぎ」なのではないかと思うたび、忘れずに「今までいちいち考えなさすぎ」だったのだということを自分に言い聞かせながら受け止めなければならないほど、そうしなければ今すぐにも全部のニュースをみるのをやめて、考えるのまでやめてしまいたくなるほど、ここは、私が生まれて暮らしている場所は、苦しみでいっぱいだ。人を殺す無邪気さでいっぱいだ。すべての人に生まれながらにある尊厳を踏みにじる行為でいっぱいだ。声をあげない人は踏まれたままで、声をあげる人はもっと強く踏まれる。具体的にどんな地獄なのか、ひとつずつここに書きたくはない。ここは地獄だ。わたしにとってはそうだ。

 

 でも地獄はわたしの「好き」を奪えない。


 タグの趣旨は好きな映画というより、自分はこういう人ですよ、という象徴的な映画を選んでみましょうというところにあると思うのですが、私は自分はこういうものが好きな人ですよ、という感じで選んでみた。タグを使って、自分の10本をなかなか時間をかけて選んだり、その10本を通して「ああ、わたしこういうのが好きなんだなあ」と思ったりしながら考えた。地獄には私の好きを奪うことはできない。絶対に。そもそも、私の好きが私にここが地獄であることを教え、地獄からの逃げ場になり、地獄のリフォーム方法まで教えてくれていると感じることさえある。だけどそれ以前に、その映画を好きだと思うこと、映画についてどうかしてると思うほど真剣に考えたり心乱されたりすること、ただなんとなく再生してしまう時間、同じ映画が好きだという人と、ただ暮らしているだけではなかなか超えられないいろいろな制約を超えて好きの気持ちを共有し合うこと。そういうものを、私の地獄は、奪うことができない。

 タグの先に、私と同じように映画を好きな人がいて、みんないろんな人生の中でいろんな出会い方をした映画たちについて頭を悩ませながら、10本を選ばれたのだろうなと思った。みんな別々の人生を生きて、もしかしたら一生直接お会いすることもないまま、あるいは幸運にすれ違うことができたりしながら、みんな別々に死んでいく。そういう人たちが、同じように10本を選んで頭を悩ませている。自分の好きな映画について話をしたい気持ちをいっぱいに抱えて、たまたまこのタグを使っている。それ、すごいことじゃないでしょうか。私は唐突に、めちゃくちゃにすごいことだなと思ったんですが。情緒がやばい。