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畑の長い話

【読書記録】侍女の物語/マーガレット・アトウッド

マーガレット・アトウッド「侍女の物語」を読みました。おすすめしていただいててずっと気になっていましたし、直近で読んだカズオイシグロ氏が、ノーベル文学賞の受賞の際にアトウッド氏のお名前を出して讃えていたような記事も読みまして、それからドラマ版の評判も漏れ聞こえたりと、いろいろな意味で「ついに!」という気持ちで。

以下読書メーターのログ。

"偶然、爪を真っ赤に塗った日に読み始めた。赤はこの物語において血の色、抑圧の色、器とみなされた女の色だ。「フレッド」に所有された女性はバターを手に塗る。それは違法だ。わたしは自分の意思で、爪を赤く塗っていることを意識した。「わたしの神様。天上の天国におわします、わたしの心のなかの王国におわします神様。...ああ、神様、どうしたら生き続けることができるのでしょう」。生き続けることとは、ただ息をし続けることではないのだ。決して"


圧倒的なほどの、描写、描写、描写で、窒息しそうなくらいでした。今そこに何があるか、視界の中に何と何が写っていてそれにはどういう物語があるのか、舐めつくすように執念深く、それでいて全てが過去のものゆえの諦念にまみれて、窓、椅子、家具、そこに何があり、「何が削り取られているのか」(例えば何か布や紐を引っ掛けることができる金具すべて、例えばそこにかつて溢れていたシルクとサテンの『虚飾』、例えばかつて彼女のものだった娘、例えば彼女のものだった彼女)。何があって何がないのか。最後の章で、これがテープに録音されていた語りであることが明らかになったとき、ようやくなぜこれほどまで眼に映るもの目に入ったもの全てが描写されつくすのか、私なりに理解できたような気がします。そこにいない人、彼女の物語を聞く人が全てを思い浮かべることができるように。または、彼女の物語を聞く人が、すべてを、「思い浮かべることでしか描けないように」。彼女の物語が聞かれる場所が、彼女の物語の中ではありませんようにという祈り。

種明かしは最終章に全て詰め込まれていますから、私がひとつひとつを取り出して分析するまでもないような気がしますが、序盤で兄弟の絆の古語が語られるときの独白、姉妹の絆を表す言葉はないのだという部分が刺さりました。事実彼女の暮らす物語のなかでは女性たち同士は、疑い合い哀れみあい憎み合い、何よりもお互いの中に見出す自分を憎んでいるようです。ジャニーンに対しては、滑稽なほど「理想的に信心深く」振舞うことを軽蔑する彼女は、同時にジャニーンを「会う人全てに蹴られまくった子犬」と表現していて...ジャニーンの生き方の中には彼女自身がいるわけで。また娼館(といっていいのかどうか)で再開した旧友が、死ぬまでの数年間を過ごすにはいい場所だと「打破」をあきらめているようすに彼女はいたましいくらい衝撃を受けていますが、それは彼女の中に彼女自身が描いた旧友の姿をした革命を失うことを恐れたからではないでしょうか...。それを姉妹と呼ぶのか、絆と呼んでいいのか、連帯とは言い切ることのできない何かがある。何かはある。

関係ないけど「風の十二方位」収録『マスターズ』に出てくる、工房の娘を思い出したよね。彼女はある意味で奪う側に立った人だけど、彼女自身が何を奪われているのかすら物語られない人でもあって、大好きな『マスターズ』を反芻するたび彼女自身の物語について考えずにはいられませんでした。侍女の物語はあの女性の物語にもつながっている気がする。

「私を離さないで」も、この「侍女の物語」も、「ディストピア」ではあるけれど、これはあってはならない、ありえない絶望世界というニュアンスではない。私たちの今まさに暮らし契約し読書しレビューし投票する世界そのものの、バロック調の鏡のようなもの。わたしたちはその鏡にわたしたちの世界を映す。「侍女の物語」の世界とは違って、鏡はまだ、奪われていないのだから。