Agriculture

畑の長い話

『アサシンクリード』~謎のいきもののモツ煮込み【映画感想】

本日のごはん:『アサシンクリード』(原題 "Assassin's Creed")

料理した監督:ジャスティン・カーゼル

脚本:マイケル・レスリー、アダム・クーパー、ビル・コラージュ

音楽:ジェド・カーゼル

主演:マイケル・ファスベンダーマリオン・コティヤール、ジェレミー・顔怖い・アイアンズ、アリアンヌ・ラベッド

(敬称略)

味 

~謎のいきもののモツ煮込み~

・あっつあつなのでとにかく体があたたまる

・「何」のお肉さんなのか、具材が分からなくても煮汁は最高にうまい

 

 みなさん、モツ煮はお好きですか。私は大好きです。今回ご紹介するモツ煮という名の『アサシンクリード』ですが、とにかく熱々です。冬に食べるアッツアツのモツ煮ほどおいしいものないですね。料理した方、制作にかかわった方みんなの熱量と愛情を感じて、それだけでお腹があたたまります。

 肝心の何モツなのか、なのですが、正直わたしもこれを書きながら分かっていない気がしています。というか確実に分かっていません。原材料のお肉は、広~~~く一般には流通していないこともあってか、お肉愛好家のみなさんたちの間では、こちらのモツ煮を「こういうのを待ってたんだ!!」と貪り召し上がりながらも、「このお肉、知ってる人いる...?なんのお肉か、知らないままだとこのモツ煮おいしくないんじゃ...?」と不安に思ってくださる方もお見掛けいたしましたが、結論から申し上げて私にはめっっちゃおいしかった!!です!!何を煮込んだ結果の煮ものなのか、分かっていればもっといろんな味わい方もできるんだろうな!?という一抹のくやしさこそ抱きつつも、なんて旨い煮汁なのでしょう。お肉さん本体のほうも食べてみたいなあ否必ず食べます、と決意を固めてしまいました。

【以下、具材(ネタバレ)】

 

 

それはかつて善と悪だった

  急に真面目になりました。上手でない食べログみたいな茶番に付き合い、しかもここまで開いてくださってありがとうございます。改めまして、畑です。

 アサシンクリード、最高でしたね!!歴史学のおもしろさに爪の先を浸しはじめたひとりとしても、「ま、街~~~!!!街最高~~~!!!」と終始むせびながら観ていました。言うまでもなく、マイケル・ファスベンダーさんが主演でいらっしゃるので、なんと全編マイケル・ファスベンダーさんが出ているんです(お前は何を言っているんだ?)。なんといいますか、顔が整いすぎていて腰が細すぎる男性で、常に非実在性がふわふわしている方なので、映画に最初から終わりまでゴリゴリ出てくるぐらいの存在感を演出してくれないと(あるいは、くれても)、「この人は本当に実在しているのんか...?」と疑わせずにはいられない魅力があると思います。余談ですが、『プロメテウス』(そして『コヴェナント』!の!)アンドロイドさんなんかは、人間としてのこの上ない魅力があるがゆえに、人間じゃないっぽい、というファスベンダーさん特有の雰囲気にとってもマッチした役なのではないかと思ったり。

 ところで、「謎のいきものの」というふうに映画『アサシンクリード』(以下、アサクリ)を例えたのは、多くの方が既に言及しているように、この映画が原作のゲーム版『アサシンクリード』を踏まえに踏まえているため、未プレイ者にはそのエッセンス(煮汁)のみが提供されている状態なのかな、と思ったからです。こう書いている時点でお察しの通り、わたくしも未プレイのまま映画を観たひとりです。

 しかし、原作ゲームファンの皆様が危惧されていたように、「未プレイ置いてきぼり(未プレイ者には全く面白くない)映画」だったかというと、私は決してそうではないと思います。万人に面白い!かとなると別のお話になってきますが、そもそも万人に面白い映画なんてコードネームアンクルぐらいですよ?(信者なのですみません

 原作から映画に媒体をうつし、より一層魅力をぎゅうぎゅうに濃度マシマシにした要素としては、まず都市かな!画面いっぱいに広がる中世スペインの都市ディティールを鷹やアギラールの視点から眺めまわせる視覚のよろこびと来たらありません。『ファントム・メナス』でグンガンの海底都市を初めて見た時みたいなときめきを感じました。俯瞰の視点だけでなくて、アギラールたちアサシンがパルクールで駆け巡るので、市場や、民家、教会と明暗のコントラストをつけて切り替わる都市風景に、まったく目が飽きませんでした。

 それからそのパルクール!ほとんどCGなしで撮っているという、人間にできることって思ってたより多いんだね。むしろ、小さいころ外みて考えてた「あそこを飛んでつかまってぐるぐる~」みたいな空想って、割とできるんだね。という、もはや顎ががくんと落ちっぱなしのパルクール・アクションと、最高にかっこいい近接格闘。目がおなかいっぱい...。

 

 そして何よりも、物語の軸になる対立、「テンプル騎士団」と「アサシン教団」の理念を考えながら観ていく人々の選択が非常に面白かったです。原作のコンセプトを引き継ぎ、また制作側も「これは善悪の物語ではない」と発言していることからも、アサクリは「悪の組織 VS 正義の味方」のお話ではないようです。

 テンプル騎士団:アブスターゴ社研究施設のソフィア・リッキン博士曰く、「人の暴力性をなくす」、そのために協力しないかと死刑囚カラム・リンチさんに持ち掛けてきます。後に父親との衝突でもみられたように、この目的自体はテンプル騎士団のものというよりソフィアさんの動機だったみたいなのですが、それでもそのコンセプトは(私の感じた)騎士団の方向性に沿っています。即ち、「秩序」です。

 一方カラム(カルって呼ばれてましたね)の一族が属し、祖先でありスペインで戦ったアギラールたちアサシン教団はというと、儀式的な場面でよりキャッチコピー化されて繰り返されていた以下の文言に象徴されているかと思います。

人々が真実に盲従するところには、心せよ。本当の真実はない。

原作の教団の教義からして、

Nothing is true, everything is permitted.(真実は無く、許されぬこともまた無い) 

というところにあるようです。教団のコンセプトは「混沌」と言い換えることもできますね。

 

テンプル騎士団の掲げる「秩序(コントロール)」

と、

アサシン教団の奉ずる「混沌(自由)」

が対立する構造は、単にどちらが善で、どちらが悪かという話では片づけられません。善悪の対立じゃないよ!と強調されている意味が分かりました。

 

 ここからが私の勝手な考察になります。具材冒頭に書いたように、「それはかつて善と悪だった」んじゃないかな?というところです。

 秩序と混沌の二項が善と悪そのものを指していた時代もあった、という切り口をくっつけてアサクリを観てみると、「歴史モノ」としての面白さがもっと見えてくるような気がしています。

 「善と悪」の対立って、現代ではどんなふうに表されるのでしょうか。例えば、より人を助け貢献する人が善、人を傷つける人が悪、という分け方ができますね。これはある程度普遍的なものの考え方かもしれませんが、それでは、ものすごく商売に精を出して富を築いた人と、地道に家業の農業を継ぎ家の持つ畑を耕した人ではどうでしょう。資本主義の現代では、商売人のほうが経済的・社会に及ぼした影響から考えて「善」になり、農家の方は、悪とまではいかなくとも前者より大変優れている、とは見られないかもしれません。(ちなみに申し添えておきますと、私はどっちが善とも悪とも思っていません。当然のことですが)

 それでは「努力して大儲けした商売人」を中世ヨーロッパの価値観、世界観に照らし合わせたらどうなるでしょう。恐らく、ほぼ確実に「善」ではありません。中世ヨーロッパに根付いていた当時のキリスト教的考え方からすれば、欲をかいて必要以上に商売に精を出す人は卑しいとされたはずです。それは、自分たち人間の本分、神から与えられた仕事、世界の仕組み(秩序)の中のあり方が、基本的に地を耕すことにあると考えられていたからです。

われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。(「創世記」『旧約聖書』)

神から与えられた大地を耕し実りを受けるのが人間の善きあり方である以上、耕しもせず、「流通」「売買」によって利益を得る商人のあり方は、善から外れた悪しき行いとみられていたはずだからです。

 では、中世においては何が善悪の基準になったのでしょう。

 一説には、「秩序=善」、「混沌=悪」と考えられたといわれています。中世には「大いなる存在の連鎖」という考え方がありまして、簡単に言えば神の導く鎖のもと、人の指導者(王族や聖職者)と人々、鳥、獣、魚などはカテゴリーごとにきっちりと順位が分かたれ、あるべき姿果たすべき役割が割り振られ、そのコントロールが行き届き、すべてが階層の中に秩序だった状態こそが、「善」と呼ばれました。詳しい説明をする知識と技術が不足していますので、根拠なんなの?と思われた方はぜひキース・トマスなどをお読みになってみて下さい。わたしがガバガバな落とし込みをしていることがお分かりになると思います(だめじゃん?

 一方、例えば女が男を支配したり、「人間が生まれや職業に関わらず平等に横一列に並ぶ」ということは、秩序だった階層=善から外れる現象ですので、「悪」と言われました。

 つまり、秩序と混沌の対立とは、すなわちド直球に「善悪」の対立だった時代が確かに存在していたのです。それを踏まえてアサクリを観ますと、善悪の長い長い闘争の中で、それらは「善悪」とすら呼ばれなくなった、という言い方があてはまりそうな気がします。ある意味、それは徐々に教団の力が増しているのだという言い方もできるのかな?ぞわぞわする面白さを感じます。

 「味」の部分で、肉も食べてみたい!と言っているのは、こういうストーリーテリングが「煮汁」なら、原作のゲームにおいて、いったいぜんたい歴史はどう語られるんだろうか!?という単純に爆発的興味がわいているということです。実はですね、ハードもソフトも買っちゃってるんですよ...ふふふ...忙しい時期が落ち着いたら多分それ漬けになるので、映画についての考察もまた進んだら追記したいなと思ってます。

 私が心情的にアサシン教団寄りになるのは「主人公」サイドだという分かりやすい偏りはさておいて、コントロールを目的にする限り「誰か」がコントロールしなくちゃいけないわけで、それは最終的には人間になってくるのだけど、そこに騎士団側が不安を感じずにいられる要因は何なのかな?と思うのですが、結局それ神なのかなあ。そこは、実際にゲームをして、神の意志と信じて騎士団が秩序を守ろうとしているのか、あるいは秩序を守るために神という概念をつくりだしたのか、そこらへんを探してみたいと思っています。

 では、今日はこのあたりで。ごちそうさまでした。