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Agriculture

畑の長い話

畑のカンボジア遺跡旅番外 骨のある町

夏を予感する季節というのがひょっとすると夏そのものより好きかもしれない。
あついくらいの風がまだ少し爽やかさを残して吹く午後って、ただでさえノスタルジックだと思うんですが、なんか例年にまして懐かしさを強く強く感じる。

それはこういう風が、3月のカンボジアに吹いていたからだと今気がついた。

いろいろなことを思い出したので、その勢いで書きます。特にまとまりはないです。誰かや何かを攻撃しようとはしてないです。

 

カンボジアの、首都プノンペンの次に人が集まる観光都市シェムリアップの真ん中には、骨がある。

 

そこはキリング・フィールドという名前でガイドブックに載っている。ワット・トメイというのがお寺の本当の名前だ。
ほんの数十年前のカンボジアで、クメール・ルージュの大虐殺によって亡くなった、数百万の死者たちへの『慰霊』塔が立つ場所。この訳語やめたほうがいいと思うけど。

 

実を言うと、私はその場所を訪れるつもりはなかった。1週間もシェムリアップの小さな町に滞在する予定なのに、そこに行く気がなかった。負の遺産を訪れて、そのとんでもない死と虐殺の記録を読んで、その後観光に戻れないと思ったからだ。楽しい旅にしたかった。私はそういう程度の意識を持っている。

 

でも、たくさんの遺跡を巡り歩きながら、やっぱりその寺院を訪れようと思った。
アンコール・ワットの壁に未だ残っている銃弾のあとを見たり、内戦期にその部分だけが削り取られて売り払われたという、首のない神像群を見たりした。私は遺跡を学びにきたけれど、遺跡がカンボジアの現代史から隔絶して存在しているわけはないという当たり前のことを考えたからだ。

 

賑やかに車やトゥクトゥクや人の行きかう通りを逸れもせず、すっと入った寺院の正面の門から、すぐに骨が見える。

骨だ。
クメール・ルージュによって亡くなった方の骨が積み上げられた、ガラスの塔が立っている。
うず高く積みあがったクリーム色の頭蓋骨が、初夏の強い日差しを浴びて光っている。
その、ものすごく普通に骨が積んであることの異様さ。
こうも言えるだろう。
骨が積んであるという、本来異様な光景であることを意図的に無視しているかのように。
一瞬普通に見えてしまうほど「普通」に、日の光に晒して、大量の人骨が積んであるのだ。
ぐしゃぐしゃにひび割れた頭蓋や、折れた大腿骨の山を見て、私は私の一般的な想像力で、そこにかつて肉がついていたことを、それはかつて人間だったことを考える。目の前にまさに広がるように、骨がカンボジアの水田に「普通」に積みあがっていたことを考える。

 

ふと、去年訪れた広島を思い出す。私は8月6日の朝に原爆ドームに立った。私は平和祈念資料館を訪れ、原爆死没者慰霊碑を見た。
その時の強烈な違和感を思い出す。

「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」

つるつると滑らかな、無害な石板に彫られた言葉は、誰のためのものなんだろうか。
死者は生者に弔われることで、安らかに眠ったりするんだろうか。
死者を「慰める」ことで、生者が安らかに眠りたいだけじゃないんだろうか。
もちろん、原爆や戦争によって家族を直接なくした経験もない私が、その気持ちを軽蔑したり意見したりすることはできない。
けれど、原爆という負の記憶を遺すための場所で、求められるべきは安らかな眠りなのだろうかと思ったのだ。

 

キリング・フィールドを訪れようと思ったとき、私は死者に会いに行こうと考えていた。
しかし、あの場所で私が経験したのは逆のことだったのかもしれない。

 

カンボジア最大の観光都市のど真ん中で、透明なガラス以外の一切に覆われることなく、クメール・ルージュの死者は全然安らかに眠っていなかった。私を含む観光客のカメラのフラッシュに毎日何百回と晒され、彼らが死ぬまで殴られたときの傷をそのままに、銃弾のあとをそのままに、太陽をいっぱいに浴びて、彼らを見る私を見つめ返してきた。

彼らの周りで笑顔で写真を撮る観光客を、その観光客と何の違いもないくせに潔癖症を発揮して軽蔑のまなざしを向けようとする私を、私の書くこの文章を介して彼らを見るあなたを、彼らが見ている。

 

死者が見ている。