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畑の長い話

トールキン先生への感謝状

こんにちは、畑です。

 初めに、トールキンアドベントという素敵な企画に参加させていただくことに感謝しています。トールキン先生の著作について、日々掘り下げ続けていらっしゃる皆さまに比べれば、とても浅いお付き合いではありますが、私も人並みにトールキン先生の著作に惹かれ、大きい言葉を使えば救われたりしたように感じているファンのひとりです。真新しい内容ではなく、ささやかな日記のようなものですが、こんな風にトールキン先生の著作と関わってきたなあと振り返ってみたく思います。

 

  初めてトールキンの作品を読んだのは、小学校高学年くらいのことだったかと思う。活字中毒の気があった私にとって、当時「おすすめ」される本は少しやさしすぎるものも多くて――というより、単純に、字数が少なくて、どんなに面白くてもすぐに読み終わってしまうのが不満だった。図書館まで出かけていっては、比較的分厚いハードカバーの外国児童文学を借りていた私へのクリスマスプレゼントに、母が箱入りの評論社文庫シリーズ「指輪物語」を買ってくれた。私がトールキン先生からもらった最初の幸福はとてもシンプルなもので、それは読んでも読んでも読み終わらない読書体験というものだった。あのときの嬉しさは、ちょっと筆舌に尽くしがたい。私は寝っ転がってふとんの上で本を読むのが大好きな子どもで、図書館から帰ってきた日はまず枕の左側に本を積んだ。うつぶせで読みながら、読んだ端から右側に積んでいくのがならいだった。読んでも読んでも次があること、指輪物語の長さを、まずもって私は大好きになったのだ。


  幸運にして、その当時というのはピータージャクソン版の映画『ロードオブザリング』が映画館でかかっていたころだった。『王の帰還』は衝撃的だった。年齢的に映画館というのは「家族に連れて行ってもらう場所」だったのに、初めて、どうしてもどうしても2回目が観たくて、自分から2回目を観に行った映画になった。そのときに劇場で買ったペーパーナイフを今でも使っている。今にして思えば当時から金の使い方がオタクのそれだ。

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 はじめてできた映画友達とも、トールキン先生が結び付けてくれたのだった。高校生のときだった。私とその友人は、映画版『ロード・オブ・ザ・リング』への偏愛をふとしたことで打ち明けあってから、とても仲良くなった。ふたりして、泥の中から熊手的な何かでかきだされるウルク・ハイの真似をして笑い転げているところを教頭先生に見つかって思い切り不審な顔をされたりしていた。そして、高校生の時に『ホビット』が公開されて、私たちは高校のいちばん近い映画館で初日に駆け込んだ。緊張と期待で冷たく汗ばんだ手を無意味につないで、予告編を観て、そしてマッチの炎がスクリーンに浮かび上がったときの高揚を忘れることができない。やわらかいクラリネットの音と、「親愛なるフロド」の声。私も友人も、歯を食いしばって泣いていたのを覚えている。

 大学に進学して、がちがちの英語コンプレックスを救ってくれたのもトールキン先生だった。周囲に英語を母語レベルで扱える人が多くて、授業の進め方にも慣れなくて、正直1年生の春はかなり緊張していたし、委縮していた。そんなとき、夏休みの課題として、ブックリストから一冊洋書を選んで読み、レビューを書いてくるというサマーリーディングが課された。軒並み分厚くて、敷居の高そうに思えた本のリストの中で、ホビットを見つけたときの不思議な安堵が忘れがたい。挑みかかって、額にはちまきで戦わなくてはいけない壁だと思っていた英語が、その昔からよく知っている大好きな顔をみせてくれたような気持ちだった。
 これはつい先日のことだけれど、イギリスに旅行に行った前述の友人からおみやげをもらった。紙包みをあけてみたら、なんと『HOBBIT』の洋書が入っていた。向こうの書店で買い求めてくれたという。「もう持ってるかなって思ったんだけど」と彼女は笑っていた。私が書きこみでボロボロにした『HOBBIT』は、Del Rey Booksのペーパーバックだ。彼女が贈ってくれた本は、Harper Collins Publishersの、軽いけれど美しい装丁のものだった。カバーはトールキン先生が初版につけたイラストを刷ってあり、表紙裏にはお馴染みの地図が二色刷りであらわれている。あらためて読んでみて、その英語の文章の、易しく美しいのに、何回目かわからない感動をした。

 

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 だらだらと、私とトールキン先生のお付き合いについて書き並べてきたけれども、書くために整理していて自分のことながらあらゆる節目で、というかどんな時期にもトールキン先生の作品と関わっていて驚いた。きっと、私にとってトールキン先生の著作というのは、暮らしの左側に積まれた本なのだ。触れるたび、新しい角度から光を見せてくれる。いまは、幼いころにはわからなかった、中つ国で終わりゆく人たちの悲哀が、少しずつ見えるようになった気がする。怒りに任せて人を断罪したくなったとき、「死んだっていいとな!たぶんそうかもしれぬ。生きているものの多数は、死んだっていいやつじゃ。そして死ぬる者の中には、生きていてほしい者がおる。あんたは死者に命を与えられるか?」というガンダルフの台詞を思い出す。そして、きっと、私が年を重ねれば、また違う読み方に出会うことができるんだろうと思う。きっと、いつまでも、読み終えてしまうことはない。それは私にとって、とてつもなく幸福なことに思える。/

 

参加させていただいた企画:

Tolkien writing day

http://bagend.me/writing-day/

ありがとうございました!

 

 

地獄は私の好きを奪えない

 ついったーが、 #名刺代わりの映画10選 というすてきなタグでにぎやかだ。
 わたしは主に洋画が好きな方々で構成されたタイムラインで生活している。生活のリズムまでなんとなく共有されているような方々があげられる、「名刺代わりの10選」が実にさまざまで、個性に富んでいて、みているだけで心が温かくなって、ついでに涙もろくなったので、こうやって卒論をぶん投げてブログを書いている。多分情緒がやばい。情緒がやばいやつの書いている文章だということを頭にいれた上でこの先を読んでいただけたらとてもありがたい。

 なにせ毎日辛すぎるのだ。

「いちいち考えすぎ」なのではないかと思うたび、忘れずに「今までいちいち考えなさすぎ」だったのだということを自分に言い聞かせながら受け止めなければならないほど、そうしなければ今すぐにも全部のニュースをみるのをやめて、考えるのまでやめてしまいたくなるほど、ここは、私が生まれて暮らしている場所は、苦しみでいっぱいだ。人を殺す無邪気さでいっぱいだ。すべての人に生まれながらにある尊厳を踏みにじる行為でいっぱいだ。声をあげない人は踏まれたままで、声をあげる人はもっと強く踏まれる。具体的にどんな地獄なのか、ひとつずつここに書きたくはない。ここは地獄だ。わたしにとってはそうだ。

 

 でも地獄はわたしの「好き」を奪えない。


 タグの趣旨は好きな映画というより、自分はこういう人ですよ、という象徴的な映画を選んでみましょうというところにあると思うのですが、私は自分はこういうものが好きな人ですよ、という感じで選んでみた。タグを使って、自分の10本をなかなか時間をかけて選んだり、その10本を通して「ああ、わたしこういうのが好きなんだなあ」と思ったりしながら考えた。地獄には私の好きを奪うことはできない。絶対に。そもそも、私の好きが私にここが地獄であることを教え、地獄からの逃げ場になり、地獄のリフォーム方法まで教えてくれていると感じることさえある。だけどそれ以前に、その映画を好きだと思うこと、映画についてどうかしてると思うほど真剣に考えたり心乱されたりすること、ただなんとなく再生してしまう時間、同じ映画が好きだという人と、ただ暮らしているだけではなかなか超えられないいろいろな制約を超えて好きの気持ちを共有し合うこと。そういうものを、私の地獄は、奪うことができない。

 タグの先に、私と同じように映画を好きな人がいて、みんないろんな人生の中でいろんな出会い方をした映画たちについて頭を悩ませながら、10本を選ばれたのだろうなと思った。みんな別々の人生を生きて、もしかしたら一生直接お会いすることもないまま、あるいは幸運にすれ違うことができたりしながら、みんな別々に死んでいく。そういう人たちが、同じように10本を選んで頭を悩ませている。自分の好きな映画について話をしたい気持ちをいっぱいに抱えて、たまたまこのタグを使っている。それ、すごいことじゃないでしょうか。私は唐突に、めちゃくちゃにすごいことだなと思ったんですが。情緒がやばい。

 

【読書記録】侍女の物語/マーガレット・アトウッド

マーガレット・アトウッド「侍女の物語」を読みました。おすすめしていただいててずっと気になっていましたし、直近で読んだカズオイシグロ氏が、ノーベル文学賞の受賞の際にアトウッド氏のお名前を出して讃えていたような記事も読みまして、それからドラマ版の評判も漏れ聞こえたりと、いろいろな意味で「ついに!」という気持ちで。

以下読書メーターのログ。

"偶然、爪を真っ赤に塗った日に読み始めた。赤はこの物語において血の色、抑圧の色、器とみなされた女の色だ。「フレッド」に所有された女性はバターを手に塗る。それは違法だ。わたしは自分の意思で、爪を赤く塗っていることを意識した。「わたしの神様。天上の天国におわします、わたしの心のなかの王国におわします神様。...ああ、神様、どうしたら生き続けることができるのでしょう」。生き続けることとは、ただ息をし続けることではないのだ。決して"


圧倒的なほどの、描写、描写、描写で、窒息しそうなくらいでした。今そこに何があるか、視界の中に何と何が写っていてそれにはどういう物語があるのか、舐めつくすように執念深く、それでいて全てが過去のものゆえの諦念にまみれて、窓、椅子、家具、そこに何があり、「何が削り取られているのか」(例えば何か布や紐を引っ掛けることができる金具すべて、例えばそこにかつて溢れていたシルクとサテンの『虚飾』、例えばかつて彼女のものだった娘、例えば彼女のものだった彼女)。何があって何がないのか。最後の章で、これがテープに録音されていた語りであることが明らかになったとき、ようやくなぜこれほどまで眼に映るもの目に入ったもの全てが描写されつくすのか、私なりに理解できたような気がします。そこにいない人、彼女の物語を聞く人が全てを思い浮かべることができるように。または、彼女の物語を聞く人が、すべてを、「思い浮かべることでしか描けないように」。彼女の物語が聞かれる場所が、彼女の物語の中ではありませんようにという祈り。

種明かしは最終章に全て詰め込まれていますから、私がひとつひとつを取り出して分析するまでもないような気がしますが、序盤で兄弟の絆の古語が語られるときの独白、姉妹の絆を表す言葉はないのだという部分が刺さりました。事実彼女の暮らす物語のなかでは女性たち同士は、疑い合い哀れみあい憎み合い、何よりもお互いの中に見出す自分を憎んでいるようです。ジャニーンに対しては、滑稽なほど「理想的に信心深く」振舞うことを軽蔑する彼女は、同時にジャニーンを「会う人全てに蹴られまくった子犬」と表現していて...ジャニーンの生き方の中には彼女自身がいるわけで。また娼館(といっていいのかどうか)で再開した旧友が、死ぬまでの数年間を過ごすにはいい場所だと「打破」をあきらめているようすに彼女はいたましいくらい衝撃を受けていますが、それは彼女の中に彼女自身が描いた旧友の姿をした革命を失うことを恐れたからではないでしょうか...。それを姉妹と呼ぶのか、絆と呼んでいいのか、連帯とは言い切ることのできない何かがある。何かはある。

関係ないけど「風の十二方位」収録『マスターズ』に出てくる、工房の娘を思い出したよね。彼女はある意味で奪う側に立った人だけど、彼女自身が何を奪われているのかすら物語られない人でもあって、大好きな『マスターズ』を反芻するたび彼女自身の物語について考えずにはいられませんでした。侍女の物語はあの女性の物語にもつながっている気がする。

「私を離さないで」も、この「侍女の物語」も、「ディストピア」ではあるけれど、これはあってはならない、ありえない絶望世界というニュアンスではない。私たちの今まさに暮らし契約し読書しレビューし投票する世界そのものの、バロック調の鏡のようなもの。わたしたちはその鏡にわたしたちの世界を映す。「侍女の物語」の世界とは違って、鏡はまだ、奪われていないのだから。

【読書記録】わたしを離さないで/カズオ・イシグロ

ネタバレは含んでいないつもりですが、どこからどこまでをネタバレとするかが分からないので、そしてこの作品は「一切の前情報」を入れないでのぞむほうがいいのではないかと勝手に思うので、未読の方はまた今度いらしてください。

 

話題になってから気になって、なかなか書店で買えないのでもだもだしていましたが兄の協力で読めました。内容には関係ないのですが、「すごく有名な作品なのに読んでいない」っていうのに変に引っかかって、逆に触れるのを避けてしまいそうな特に意味のないプライドをとても自覚したので、そういう余計なところをうっちゃって積極的に本が読みたいなと思いました(作文

 

以下読書メーターに書いたログから。

"兄からもらって読む。遠雷のような印象。静かに静かに、近づいてきたそのことは本当はずっと隣に、あるいは内側にあったのだ。それでいてその事実は、過去にあり今は失ったすべてのものの輝きが消えてなくなることを意味しない。すべてはただ、そこにあり、ただ、最後の場所に流れついていく。"

 

読んでいるあいだと読み終わったあとに、感情の大きな動きがなくて、それを解説では「抑制の効いた」というのかもしれません。わたしの稚拙な表現でがんばるなら、やっぱり遠雷みたいな小説だと思えました。遠くで鳴ってて、ああ、鳴ってるなと思う、誰もそれについて語らないけど、鳴っていることはみんなが知っている。そういうものの集合。また読み返すと違う感想もわいてくるのかな。ただ、仕掛けられていることというか彼女たちの未来自体は、ものすごく意外性のあるようには書かれていないですよね。ただそこにある。人によって見えたり見えなかったりするだけの、ただそこにあるものというか。むしろ、その未来...最後の部分の表現を借りるなら「行くべき場所」によって、彼女たちが生きてきた道すじの、あのなんとも言えないリアリティが崩されていないことがすごいと思った。お気に入りだったもの、友だちの表情に苛立ったこと、それでもずっと一緒にいたり、友だち同士でしかできない傷つけ方をしあったり。ものすごく生々しい幼年期のコミュニティの描写がいちいち胸にひたひた迫って、それが本当にすごい。あと、大切な人とも死を分かち合うことはできない、死はそれぞれのものだから。というのはトミーの結論であってキャスの意見ではなかったかもしれませんが、わたしにとってはとても安心するものでした。みんなひとりで流れ去っていくけど、多分「ノーフォーク」も、失われたものすべての行き着く最果てもまた、誰の中にもあるんだろうな。

エルサレム散策

奴隷商人の暗殺でエルサレムを散歩。

岩のドームを単に「つるつるして周りが開けていてのぼりにくいビューポイント」...って通過しかけて、降りてひとつスリ任務をこなしてから「ワアアアここ岩のドームじゃん!!!」ってなってのぼり直した。あと富裕地区の北に、近づくと綺麗なグレゴリオ聖歌が聞こえてくる教会があったけどあれはもしや聖墳墓教会だったのだろうか...

物乞いが多い。あとすごい接近してくるね。富裕地区しか今回のミッションでは入らなかったんですけども、貧困地区はどうなっているんだろう。

奴隷商人の言からすれば彼は落伍者(病人、老人、物乞い、娼婦)の救済にあたっていたらしくて、アルタイルさんも彼の暗殺後に「それどういう...?」ってアルムアリムおじいちゃんに聞いてる。おじいちゃん曰く、「落伍者になったものを、救いあげることが忠誠心を培う」らしく。アルタイルさん「手間がかかりますね」とか言っているけど、一度全ての地位を失って、アルムアリムさんの言うなりにひとつひとつ取り戻している過程のあなたはまさしく手間をかけて忠誠心を育てているのでは...?

戦闘が下手すぎて、あとてんぱると途端にハシゴすら登れなくなるので、まだまだ先は長そうです。投げナイフもらったぞー!!

ダマスカス散策

アサシンクリード2日め。

先日到着したダマスカスの街のビューポイントをめぐりながら、調査ミッションを一通りこなし、タミールさんなる商人をとりあえず暗殺することに相成りました。

 

調査は全部やらなくてもいいみたいなんだけど、序盤で慣れたいなと思って全部やっといた。尋問(物理)。あと、なんだかんだビューポイントも全部めぐりました。シンクロして視界がぐる〜〜っと回るの好きー!!かっこいい!!

 

 

街頭演説のひとを見ていて、こういう政治的な演説がなされるってことは、ある程度「公共空間」みたいなものが存在するわけで、果たしてこの時代にこういう景色は本当にあったのかな〜とか思った。街頭演説って「公共」に向けて喋るって発想がないとできないんじゃ?と私なんかは思っちゃうけど、実際どうだったんでしょね。街がガヤガヤしてて、歩いてて楽しいですね。

 

無事に暗殺はできました!一回デズモンドくんも休憩もらえた。ふとんで寝る一瞬、なんか漢字?みたいな映像がはさみこまれたんだけど今後意味がわかるのかな!期待。

 

とりあえずアルムアリムおじいさんのところへ帰るらしいです。えーーもっと街歩きしたい!!次はまた別の街に行くのだろうか。

 

 

 

『キング・アーサー』人類未踏の生ビール(夏にぴったり)【映画感想】

本日のごはん:『キング・アーサー』(原題 "King Arthur: Legend of the Sword")

料理した監督:ガイ・リッチー

脚本:ガイ・リッチー、ライオネル・ウィグラム

音楽:ダニエル・ペンバートン

主演:チャーリー・ハナムジュード・ロウ、アストリッド・ベルジェ=フリスベ(なまえかっこよすぎません?)、エリック・バナエイダン・ギレン

(敬称略)

味:のどごし爽やか生ビール

おいしかったですねキングアーサー。めちゃくちゃおいしかったですね。アンクル2を求めすぎてカラッカラの喉に突如流し込まれたガイリッチー印のビールのおいしさといったらなかったですね。夏ですし。最高だよ...最高...

とりあえず、これから喉がかわいたとき、「とりあえず、キングアーサーいっとく?」みたいな存在になってしまうのは間違いないです。「別に...大好きってわけじゃないけど...」とか、「まあなんとなく」とか割とひどい扱いをされながらも、きもちよく酔っぱらうための一杯目、楽しい乾杯にはキングアーサーが選ばれるったら選ばれるんです!!以下ネタバレ!!

 

 

まず謝罪から入らせてください。
なんか...いろいろウダウダいって...観に行く遅くなって...ほんとすみませんでした...ガイリッチー先生!!!!!先生!!!おれガイリッチー先生についていくよ!!!これからもついていくよ!!!だから「おもしろい映画撮ってるつもりだけど...誰も見に行かなかったし???」などとインタビューの場でいじけずにこれからもたくさん映画を作ってくださいおねがいします。これからはぜったい初週に観に行くから!!約束するから!!「なんか予告編からおもしろさが伝わってこない」とか言って本当にごめん超おもしろかったです本当なんです

というわけで全世界的に興行収入がイマイチだったことということになりそうな悲劇の爆おもしろ映画キングアーサーです。ビールでしょ。ビールだよこれ。人類がまだビールを飲んだことがないと想定してみてほしい。夏のあっつい盛りに「なんでもいいから飲み物」って頼んだらビール出てくるわけ。でも誰もビール知らないから、「ちょww泡出てんだけどww」とか「なんか色黄色くない?大丈夫?」とかさんざん言われるわけ。飲んでみたら喉にぐっとくる飲みごたえ!つめたい!苦い!炭酸!カーーーッ!!!ってめっちゃきもちいいんだけど人類はそのきもち良さに慣れてないわけですよ。「ビール飲んだ時のきもち良さ」を快感認定してないの!まだ!!だから、「悪くないけど....うーん?」「これは...うまいのか?」っていう話になっちゃうんですよ〜〜おいしいったら〜〜。一方でシャンパン求めてきた人とかゆずサワー求めてきた人からは「うーん違うな」って言われちゃうし。それはしかたないんですよ。ビールなんだから。高級感も甘みもないんです。ビールにはビールのおいしさがあるのです。

何を言っているのかわからなくなってきましたが、私はビールことキングアーサー大好きでしたね。最初、キャメロット城にすーーーーーっっとカメラが滑って寄って行くオープニングで「ひそひそ...ひそひそ...」と音楽が始まった瞬間「あ、好き」と直感しまして、最後まで幸いにもそれはくつがえされませんでした。突っ込もうと思えばツッコミどころはたくさん、あると思いますが、私の中から「つっこみたい」という気持ちは聖剣無双とともに消し飛んだのだ。
メイジの動物瞳孔変化!象(某指輪映画とさすがにネタ被りするかなっ?って心配したかもしれないガイリッチー監督は華麗にサイズをでかくした)!!ヌタウナギの姉妹!!ドラミング!!カンフージョージ!!ジュードロウの火の玉芸とコールアンドレスポンス!!聖剣無双!聖剣無双!聖剣無双!チャリハナのちんぴらスーパーかっこいい歩き!!
とものすごい要素を兼ね備えながら映画としては意外に正統派のつくりをしているような気がします。そんなにとんでもないことばかり起こるわけじゃない。アーサーには、なんか魅力があって、ほんと主人公なんですよねえ。脇役(後の円卓)もめっっちゃ魅力的だし、ユーサー王とかマギーとかイグレイン妃とか登場回数の少ないキャラクターも、どんな人なのかうかがわせる顔立ちをしていて思わず情がうつっちゃう...。ジュードロウ氏の演じるヴォーティガンもなんか魅力的としか言いようがないですね。

おもしろいじゃんキングアーサー。
びっくりするほどおもしろいじゃん。

つまり、この映画が評価されるためには、ビールが「ビール」というジャンルを確立させているように、ガイリッチーもまた「ガイリッチー」というジャンルとして確立されるべきだと思います。シャンパンとかゆずサワーのジャンルの中で評点しようとするからうまくいかないのです。ガイリッチー映画はガイリッチー映画としておいしく飲むべき!!!そうやって真夏のすべての宴会でキングアーサーがぐいっと行かれるようになれば、きっとアンクル2も制作されるはず。そう思いませんか。